高知県生まれで日本の民主政治の草分けとして活躍した板垣
退助(いたがき たいすけ)という人物がいた
100円玉がお札の時代、その日本銀行券B100円券に肖像が用いられた人物である
1906(明39)年9月:板垣退助を中心に京浜競馬倶楽部が設立され
1907(明40)年7月:川崎競馬場にて競馬が開催された(主催:京浜競馬倶楽部)
1908(明41)年:競馬法が施行され、馬券の発売が禁止された
そのため、各地の競馬場は閑古鳥が鳴く始末であった
政府は、こうした競馬場を統合させ補助金を与えて、引き続き馬の改良・増産を図った
東京競馬会(池上)、京浜競馬倶楽部(川崎)、日本競馬会(目黒)、東京ジョッキー倶楽部(板橋)
それら4つの競馬法人が統合され
1910(明43)年:現在の中央競馬(JRA)の前身である東京競馬倶楽部が設立された
この合併により川崎、板橋、池上の競馬場は廃止され、目黒だけがそのまま残された
馬券発売禁止の下で開催された同倶楽部の第一回競馬(目黒競馬場)では
政府補助による賞金の獲得を各馬が競うという内容で
お金を賭けられない観客としては興味をそがれるものであった
(裏では闇馬券の発売も行われ、著名人など十三人が検挙される事件もおきている)
1914(大3)年:目黒競馬場では勝馬の的中者にデパートの商品券を贈呈するという余興を始めたりもした
1923(大12)年:馬券の効用を見直した政府は、馬券発売を認める「競馬法」を制定し
関東大震災による惨事の直後にもかかわらず、一万六千人を超す入場者を集めた
その後、各地の競馬場は、再び活気を取り戻した
京浜競馬倶楽部解散後に競馬場跡地は富士瓦斯紡績川崎工場となった
現在の地方競馬の川崎競馬(神奈川県川崎競馬組合が主催)とは直接のつながりはないが
競馬場は現在の川崎競馬場の地に所在していた
ちなみに
現在の川崎競馬場は1949(昭24)年、叶崎競馬倶楽部に建設させ
1950(昭25)年に第1回県営川崎競馬が開催された
神奈川県川崎市
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